
アルゼンチン人はさまざまな環境において、あらゆる種類の“戦い”に慣れている。文学界ではホルヘ・ルイス・ボルヘス派とフリオ・コルタサル派の対決、あるいは大統領に三選したファン・ドミンゴ・ペロンの支持者と反対派の対立、50年代のカーレース界におけるファン・マヌエル・ファンジオと、ライバルのオスカル・アルフレード・ガルベスのファンの争い……。
サッカーでは、2つのワールドカップ(W杯)の優勝監督――セサル・ルイス・メノッティ(1978年アルゼンチン大会)とカルロス・ビラルド(86年メキシコ大会)は犬猿の仲と言われる。そして今日では、アルゼンチン代表監督のディエゴ・マラドーナと、ファン・ロマン・リケルメの確執が伝えられている。
多くの人にとって驚きだったのは(何カ月にもわたり、代表を見てきた者にとってはそうでもないが)、リケルメが今回、「マラドーナが監督である限り、アルゼンチン代表に戻るつもりはない」と断言したことだ。
しかし、さほど昔ではない2001年11月、86年W杯のスターは、愛するボカ・ジュニアーズのファンで埋め尽くされたスタジアムで引退試合を行い、サッカー選手として別れを告げた。そのとき伝統の背番号「10」のユニホームを託したのが、ほかならぬ“新たな敵”リケルメだったのだ。
01年に象徴的なユニホームとともに刻まれた友情関係はその後も続いた。マラドーナは“ラ・ボンボネーラ”(ボカのホームスタジアム)のボックス席から、毎週のようにリケルメを応援していたのだ。リケルメがボカから欧州へ新天地を求め、07年に古巣に戻ってからも変わらず。なのに、2人の関係が終わりを告げたのはなぜだろうか?
■リケルメを怒らせた理由
その理由については諸説ある。表向きには、マラドーナが本人に直接でなく、メディアに向かって、リケルメのプレースタイルやフィジカルコンディションがよくないなどと語ったことが気に障ったというものだ。こういう問題を1対1で話すことができない指揮官に対し、「考え方も倫理観も違う人間とは一緒にやっていけない」とリケルメは語っている。
その一方で、今回のマラドーナへの怒りの根源は、ずっとさかのぼるという説もある。アルゼンチンサッカー協会(AFA)と会長のフリオ・グロンドーナが、アルゼンチン代表のリーダーシップをリケルメではなく、いまや世界的なスターとなったリオネル・メッシに任せたいという希望を持っていることに気づき始めたからだというのだ。リケルメの技術的な資質は疑う余地がないが、難しい気性は知られるところである。競争心が強く、チームメートといい関係を築くことができないのではないかと思われているのだ。
リケルメがグロンドーナに対して最初に強い憤りを覚えたのは、08年北京五輪に向けてのトレーニングの時だと言われる。グロンドーナが代表チームを訪問した際、会長は皆のいる前でメッシを抱き締め、「君が代表を背負わなければならない。チームは君の物なんだから」と言ったというのだ。
思い出されるのは、05年にオランダで開催されたワールドユース(現U-20W杯)である。アルゼンチンはグループリーグの初戦でメッシをベンチに置き、米国に0-1で敗れたのだ(メッシは46分から途中出場)。その夜、グロンドーナは当時のユース監督、フランシスコ・フェラーロを電話口に呼び出し、こう言ったという。「メッシをスタメンで出すか、さもなければ君がすぐにアルゼンチンに帰るかだ」。それ以降、メッシはスタメンに名を連ね、アルゼンチンは優勝したのだった。
北京五輪でアルゼンチンは連覇を果たし、その立役者の1人は紛れもなくリケルメだった。その後、マラドーナがアルゼンチン代表を率いることになる。指揮官は事あるごとに背番号「10」はリケルメのものだと公言してきたが、ボカの背番号10は、時代はメッシやセルヒオ・アグエロといった、新しい世代のものであることに気づき始めていた。また、アグエロがマラドーナの次女との間に子供をもうけたことも、その思いに拍車をかけたのだろう。
2月11日にマルセイユで行われたフランスとの親善試合(2-0でアルゼンチンが勝利)で、リケルメは代表に招集されなかった。マラドーナから言わせれば「招集できなかった」ということになる。指揮官は「チームの鍵となるリケルメを当てにできないなんて」と、協力を拒否したとされる所属チームのボカに不満を表した。
クラブ側からすると、8日の日曜日、しかもその日の最終ゲームとなる19時半から国内リーグのヒムナシア・フフイとの試合があるため、その後すぐさま飛行機に飛び乗り、水曜日のフランスでの試合に備えるには十分な時間がないということだった。
マラドーナは、こうした自らの仕事への妨害はグロンドーナとAFAのせいだとした。しかし、すべてはすぐに崩れ去ることとなる。ボカの監督カルロス・イスチアが、リケルメを代表チームに差し出すことを了承したのだ。しかし結局、リケルメがフランス戦に招集されることはなかった。リケルメは、自らが呼ばれないことをラジオで初めて知ったのだ。
この時、リケルメはマラドーナがもはや自分を必要としていないことを悟る。そして、決定打となった出来事が、指揮官がメディアを通じて自らのプレーを批判していることを知った時だった。リケルメのゆったりとしたプレーテンポを放棄することは、クリエーティブなプレーを否定されるということだ。そして、マラドーナにとってW杯予選の初陣となる28日のベネズエラ戦、4月1日のボリビア戦に向けた招集メンバー発表の直前、リケルメは自ら代表と決別した。
■“戦い”の行方は……
なぜ、マラドーナはまずリケルメ本人に自分の考えを伝えず、メディアに語ったのだろうか? さまざまな憶測が流れているが、明快なのは、指揮官がボカファンにとってのアイドルであるリケルメを除外することで、政治的な犠牲を払いたくなかったというものだ。マラドーナもボカのアイドルであり、自分が悪者にならずに、リケルメ自らの決断で代表を離れさせるよう仕向けたかったようだ。
しかし、この計画は思ったようにはうまく進まなかった。ボカでは、リケルメはマラドーナより数多くの栄冠を手にしている。マラドーナは若かりしころ、81年に一度リーグを制覇しているだけだ。大部分の人々は、今回の件でリケルメの側につき、マラドーナに背を向けた。そもそも、選手より先にメディアに話すこと自体が“倫理的な観点”から言っても受け入れられなかったのだ。
アルゼンチン代表がこのまま、世界でもまれに見るテクニックの持ち主を欠いて戦うことになるのか、現状のシステムで十分なのか、あるいはマラドーナがリケルメのようなタイプのほかの選手を呼び戻すのか(例えばインデペンディエンテのダニエル・モンテネグロ)。それは、いずれ明らかになる。ただ間違いなく、アルゼンチン代表の背番号「10」はメッシが身に着けることになるだろう(実際に28日のベネズエラ戦ではメッシが10番だった)。バルセロナでそうしているように。
近いうちに、われわれはその答えを知ることになるだろう。その間、アルゼンチンの人々は、マラドーナとリケルメという、今日の新たなる“戦い”を目撃するのだ。
[2009年3月30日(月)セルヒオ・レビンスキー/Sergio Levinsky スポーツナビ
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◆“王様”リケルメの性格を考えれば、マラドーナというスター監督に加えてメッシというスター選手のいる代表は居づらいものなのでしょう。
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